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カテゴリ:ウサギ追いし( 6 )

伝説?のタバコ作り

■ 8月11日 菅家氏のブログから伝説の『タバコ作り名人』イイヅカ カヅオ 氏
        の名前を見た。

■ 私がかつて葉タバコ生産資材販売の仕事をしていた頃、地元三島町はもちろん
  会津の行く先々で『イイヅカ氏のことを知っているか』と聞かれた。
  残念ながら私がその仕事に就いた頃はイイヅカ氏はすでにタバコ栽培は止められ
  氏が残された畑は近隣の方のタバコ畑になっていた。

  氏が残された畑から収穫された葉タバコは特別な事をした訳でもないのに
  3年間は地域でもトップクラスの品質に仕上がっていたとのこと。
  当時の三島町タバコ組合長 ババ コウヒコ氏の話によると、
  『あの真似は出来ねぇ』の一言だった。
  イイヅカ氏の葉タバコの買入れ鑑定をした当時の『タバコ専売公社』の
  技術員氏の話によれば『乾葉が光っていた』まるで別物だったと言う。

  要するに氏は葉タバコを育ててくれる畑の土を作るために農閑期の冬に
  雪の中にも拘らず毎日休むことなく畑に通い『土作り』に励んだと
  言う話を聞かされた。

  私は25年間その仕事に関わってきたがイイヅカ氏の話に匹敵するだろう
  人には出会うことは出来なかった。

  そして今自分が花農家として『ああすれば、こうできれば』そんな事を
  想っても何も出来ていない。土作りの事。
  せめて氏がやったという半分でも、そのまた半分でも出来たらと思う。

  
  


 
 
 
 
by taka1562t | 2016-08-11 23:06 | ウサギ追いし

清姫の思い出

■ 昭和45年の正月だったと思う。郡山に就職していた妹が帰省し5日に会社に帰ると
  言うので新鶴の駅まで送ることになった。大雪の年だった。朝の10時に家を出て
  下の集落、市野まではちょうど新年の地区総会に行く父達と大勢で出発した。市野まで
  2km余、12時近くなっていた。そこからは踏みしめた雪道が無くさらに2kmの
  二岐(フタマタ)まで新雪の中義兄と二人で先こぎをして1時間半、その先も道が無く
  さらに松坂(マツザカ)まで新雪をこいで歩いた。新鶴の駅に着いたのが夕方5時過ぎ
  雪が無ければ3時間弱で歩いていた道を、7時間ほど歩きとおし、その日ただ1本だけ
  通った列車に間に合った。妹達は郡山へ向かい、私は高田の伯母の家に泊まることにし
  た。身体は冷え、雪こぎの疲れで足は痛く、高田の駅から伯母の家までたどり着くこと
  が精一杯だった。

  伯母の家で2日ほど休んで、天気の回復を待っていた。朝から晴れた8日の8時に伯母宅
  を出発。只見線は動いていなかった。家まで約20kmを歩いて帰ることにした。
  二岐集落まで着いたのが11時、集落の店で早い昼飯代わりにラーメンを食べ出発。
  市野集落12時。そこから先新雪で覆われた道路に歩いた跡は無かった。仕方なくカンジキ
  を履き歩き出した。通常の道路を外して山上りの直線を歩くことにした。上るほどに雪は
  深くなり足は進まなかった。それでも集落の近く300m位までは日が高いうちに歩けた
  のだが、そこからが大変で空腹と疲労で足が前に進まなくなってしまい、泳ぐようにして
  やっと集落入り口の姉の嫁ぎ先まで着いたときは真っ暗になっていた。
  姉の家の玄関を開け、倒れ込んだのまでは記憶にあるのだが、そこから先は覚えていな
  い。気が付いたのは夜中、12時を回っていたと言う。

  その日お昼頃から清姫の様子がおかしかったと後で母に聞いた。普段馬小屋の中で静かに
  している彼女が、せわしく嘶き、小屋の周りの羽目板を蹴り暴れていたと言う。
  あまりの変わりように母が気づき『敏雄が帰ってくるのではないか迎えに出てみては?』  と父に言ったと言う。父は『こんな日に帰ってくるはずは無い、気のせいだ』と
  動かなかったと言う。
  『敏雄がうちで倒れている』姉が駆け込んで初めて清姫が暴れていたことが私の危険を
  家族に知らせようとしていたと知ったと母は言っていた。
  電話があったわけでもなく、帰宅を知らせる術は無く独断で雪の山道を帰宅しようとした
  私の無謀な行いを彼女は感じていたのかもしれない。父に負ぶわれて私が家に帰った後は
  急に静かになったそうである。動物の感なのかも知れないし、また他に要因があり偶然
  だったのかも知れないが、その話を私は偶然とは思えない。
  一つ屋根の下で暮らしてきた者にとって、たとえ馬でもやはり家族なのだと思いたい。
  翌日は1日中休んで、次の日藁を切りカイバを作ってやると私に鼻を摺り寄せてきた。
  何時もならふてぶてしく、『やっと持ってきたか』と言う様な態度の彼女がいやに
  優しい目をしていたのを私は忘れない。

                                  また後日
  
by taka1562t | 2011-01-03 07:35 | ウサギ追いし

清姫の思い出

■ 12月22日 我が家にいた最後の馬。清姫(キヨヒメ)の事。

■ 昭和26年6月16日 耶麻郡山都町(現 喜多方市)生まれ。農耕馬としては比較的
  小型の馬。何でも競走馬の血を引き継いでいるとかでめっぽう足が速く、その上
  気が強くて私の言う事などは聞く耳もたずの態度が見え見えのヤツだった。

  私より生まれたのが3ヶ月ほど遅い彼女が、我が家に来たのは7歳の時。私はまだ
  子供。彼女は立派なオトナ。要するに彼女にとっては私が何歳になっても子供のまま。
  年下の私の言う事など聞く耳を持つはずがなかった。私たちはそんな関係で20歳まで
  一緒に暮らした。

  春、まだ雪で道路が開けない4月始め彼女は耕馬(コウバ)として里に出稼ぎに行った。
  引き受け先の春田耕い(ハルタウナイ)に行っていた。50日が彼女の奉公期間だった
  と記憶している。
  稼ぎ先の農家の田畑を馬耕で耕し、田んぼの代掻きまでが彼女の仕事だった。連日の
  きつい作業と、『どうせ借りた馬、使えるだけ使え』そんな意識があったかどうかは
  知らないが、とにかくこき使われていたように思う。約束の日を待ち遠しく過ごして
  父は迎えに行っていた。帰りには米2俵を背にして帰ってきた。我が家を出るときは
  冬の間に丸々と太っていた身体があばら骨が見えるほどガタガタに痩せて帰ってきた。
  そんな彼女をバアチャンや母は涙を浮かべ出迎えていた。そして前日から煮ておいた
  豆と細かく切った藁、その上に朝多めに作っておいた味噌汁と米ぬかをまぶして食べ
  させた。自分達の生活のため他人様の家で頑張って働いた彼女に対しての、精一杯の
  ねぎらいだったのだろうと思う。
  カイバ桶を彼女の前に置きながらバアチャンが独り言のように語りかけながら涙を
  流していた姿を50年たった今でも忘れることは出来ない。 そんなバアチャンの
  姿に影響されたかどうか記憶にはないのだが、まだ子供だった私と妹の二人で草を
  取って来て食べさせようとした時の彼女の目に涙のようなものが流れていたことも
  忘れられない記憶の1コマでもある。今にして思う彼女がどんな50日を過ごして
  来たのか? と。 彼女が背負ってきた2表の米は家族の多かった我が家にとっては
  貴重な物だったに違いはないのだが、その頃私たちに彼女に対して果たしてどれ程の
  感謝の気持ちがあったのだろうか? ただ『馬だから当たり前』くらいの気持ちしか
  なかったのではないかと思うと、今にして心が痛む。

                                この後は後日 
   
  
by taka1562t | 2010-12-22 23:53 | ウサギ追いし

溜池の草刈

■ 6月6日

■ 朝の採花を終えてから姪達に調製を指示して山の溜池の草刈作業へ。
  私が会津宮川土地改良区からの委託で管理している 『大谷地溜池』 の堰堤草刈
  作業を開始すべく山へ。 曇り模様で暑くなくまた雨が降るでもなく、絶好の草刈日和。
  こんなに恵まれた日は近年に無かったこと。 約3.000平米の草刈は私一人の仕事には
  楽なことではない。 でも年に2回の草刈はここで過ごした幼い日々を思い出させてくれる
  またとない機会なのです。 

■ この溜池で泳いだ夏休み、堰堤の上でジャガ芋を煮てみんなで食べたこと、バターなど
  あるはずも無く、生味噌があれば幸せ、無ければ塩があるだけで結構うまかった。
  とにかく腹が減っていた。 そんな子供時代。

■ 毎週日曜日の朝、7時集合 溜池の側にある集落神社の掃除。 よほどのことが無ければ
  参加しない者はいなかった。 集落の子供達の務めと感じていたからかも知れないが
  とにかくみんなまじめに参加し作業をした。 掃除が終わると 恒例の『子ども会』があり
  1週間の反省と、次週の目標が話し合われた。 そんな中で子供同士の喧嘩もあったが
  年長の子供がうまくまとめてくれていた。
  いわゆる 『什の掟』 年上の者の言うことは最後は聞かなくてはならない。 それで問題が
  あったら、次週にまた話し合う。 そんな繰り返しの中で子供達同士の 『ルール』 が保た
  れたのだと思います。 ここで話し合われたことはよほどのことが無ければ親達は口出し
  しなかった。 まさに子供の自治社会だった。

■ 賑やかだった50年前のことを思いながらの作業は、そのつらさを忘れさせてくれるのに
  充分な暖かさ、懐かしさ、そして自分達が、先輩達がここで生まれ育ち、様々な世界に
  社会に飛び出していった。 それぞれがその置かれた立場で活躍していることを思う
  誇りは何物にも替えがたい。 いつか誰かがここに帰ったとき、変わらぬ昔の風景が
  あることを思ってくれたら、それが私の幸せなのです。 この溜池を管理させてもらうことは
  私にとって幸せな一時なのです。 だから私が身体の続く限りこの仕事は誰にも渡したくな
  いと思うのです。

■ まさに 『ウサギ追いし』 昔を思い、明日への力を私に与えてくれる溜池、
  『大谷地堤』なのです。
   
by taka1562t | 2008-06-06 22:09 | ウサギ追いし

豆まき

■ 2月2日

■ もう明日は節分になってしまった。明日の夜は日本中『豆まき』かなと思う。
   しかし我が家には豆まきは無い。いや豆まきは我が家には御法度なのである。
   その理由は解らない。昔からそうなのである。

■  私が生まれ育った集落には昔から世間とは少し異なった習慣?がある。そのひとつに
   『豆まき』は5戸の集落のうち、ただ1戸だけ『S家』だけが豆まきをすることが出来た。
   当日の夕方早くにその家の当主が『豆まき使い』に各家を廻り豆まきの案内をする。
   それを待って、各家の子供達は早めの夕飯を食べる。それも少しだけ。なぜなら
   その夜は1年に1回の楽しみな日だから。
   豆まきも楽しみなのだがそれ以上に『ウサギ汁』の食べ放題の日だったからである。
    子供達が集まるのを待って豆まきが行われ、その後に『ウサギ汁』と『甘酒』の
   文字通り、飲み放題、食い放題の夜になっていたのである。
   山ウサギの肉と凍み大根、そしてサトイモの茎の干した物、他に何が入っていたか
   記憶には無くなったが味噌仕立てで、それは本当に美味かった。豆まきの後
   甘酒を飲みながら子供達だけの『花札』、これを私達は『メクリブチ』と言った。
   もちろんお金を賭けた勝負ではない。賭けるものは先ほど拾った『豆』だった。
   小さい子が勝負に負けて『拾った豆』がなくなると宿の家(祭事をする家のこと)の
   アンチャ(年上の男の子)が黙ってその子供に豆を分けてくれた。
   その上帰るとき少ししか持っていない子供に、その家の父ちゃんがまたその子の
   袋に神棚の豆を足してくれた。まく豆は用意した量の半分くらいで残りを神棚に供えて
   全員で手を合わせる慣わしであったから半分は残っていたのである。
   豆を足してもらうときの喜びはドジであまり拾えなかった私には何にもまして嬉しかった。
    夜の更けるまで遊んで、飲んで、食って。・・・・子供達にとって夢の一夜だった。
   我が家では何をしていたかと言うと、『炒り豆』を作り神棚に供え、手を合わせ
   豆ガラにさした煮干の頭を玄関や窓辺にさして節分の行いとしていたのである。
   神棚に供えたその豆は家の者が遠くに出かけるとき、あるいは何か重要な用事で
   出かけるときなどに食べたり、袋に入れ旅先まで持参したのである。
   どんな『いわれ』やこだわりがあったのかを知ることは出来なくなってしまったが
   おそらく何か『魔除け』のような信仰でもあったのではないかと思う。
    『過ぎし日、彼の地』の行事である・・・・・・・・。
by taka1562t | 2008-02-02 22:53 | ウサギ追いし

水神様

■ 1月26日  水神様の話

● 昭和49年を最後に私の曾爺さんが明治時代に開墾し我が家の基本となっていた
   6反の田んぼを私は耕作放棄した。当時23歳。その田んぼに纏わる現実の話。
   46年から東京で冬季間働いていた私にはあまりにも生産性の低いこの田んぼは
   いかに先祖からの譲り物といっても自分の身を縛るだけの物にしか思えなかった。
   その一角に水神様が奉られてあった。60cm角位の台石の上に30cm角位の
   石塔が立っていた。石塔には『水神』の2文字が刻まれていた。曾爺さんが80歳の
   時、会津高田の石屋に刻ませた石碑だと云う。石屋から現地までは20km位はあったと
   思う。それを80歳の年寄りが自分の背中で3日掛かりで運んだと云う。
    20歳の頃その石碑を背負ってみたことがある。若い私にも軽い荷物ではなかった。
   よろめきながら歩くのがやっとの重さだったことを覚えている。

■ その石碑の下、台石の一部が僅かに削り取られ石碑との間に1㎝位の隙間が出来る様に
   なっていた。
    毎年春、田うないが始まるといつの間にか何所からとも無く5寸位の『白い蛇』が来て
   その隙間に入っていた。我が家を始め部落中の人たちが『神様は来たか』と毎日の
   ように石碑を傾けその神様の存在を確かめていた。
    昭和30年代の初頭、傾けた石碑を戻すときに人間の不注意から『神様』を
   石に挟んで殺してしまった。
   その年の夏、棚田状の上の山の中腹から折からの大雨に因る『鉄砲水』で田んぼは
   ほぼ全滅した。その水が噴出した穴は49年当時も私がしゃがんで進めば2m位奥まで
   入れたしその先は狭いばかりで山頂に向かって4~5m位あったように記憶している。
    私が百性を始めた40年代には親類中の助けにより、すでに田んぼも復旧していた。
   そして『水神様のお使いの白蛇』も石碑の下に帰って来ていた。
   それは昔の通り、田に水を張る頃には来て、秋、水を落とす頃には帰って行った。
    何時ものように稲を植え、育て、刈り取りを続けた年は決まって『来ては帰る』と
   同じように過ぎて行った。49年の年も同じように過ぎて行った。
   50年の春、耕作をやめることになった田んぼとそれまで見守ってくれた『水神様』に
   感謝の気持ちと、開墾してくれた曾爺さんの気持ちを想い、酒、塩などを持参し御参り
   した。しかし『白い蛇』の姿を見ることは出来なかった。その後どうしても諦めきれず
   何度も御参りし石を傾けてみたが2度とその姿を拝む事は出来なかった。
    あれから30余年、今となっては現地に行く道路は藪になり、人間が歩く事も出来ず
   行きたくても行けない。そんな状態になってしまった。
   我が家の田んぼを守り、生活を支えてくれた『水神様』の石碑は残っていることだろうが
   そこで何があったのかを知る人も少なくなった。
    そこで田んぼを作り、生活したことのある人は殆ど他界し、私を含め数人に
   なってしまったからである。
    こんな話をしても信じる事が出来る人はおそらくいないだろう。しかしこれは我が家と
   わが部落の人たちが生きてきた中でおきていた、一年々々の紛れも無い出来事だった。
    間もなく忘れられてしまうであろう・・・・過ぎし日の彼の地のできごとである。
by taka1562t | 2008-01-27 00:34 | ウサギ追いし